2.東洋医学の歴史

●遣唐使らが伝えた東洋医学

 中国の伝統医学が中国から日本に伝えられたのは、遣唐使などにより中国との交流が盛んになった6~7世紀頃と言われています。それまでの医学は和方と呼ばれ、それらは漢方医学(東洋医学)に次第に吸収されていきました。
 平安時代から、鎌倉時代にかけては、寺院や僧侶が漢方医学の担い手でした。金寺院の枇杷療法や、福井県長泉寺のスリバチ灸、陀羅尼助などに、当時の東洋医学の名残が見られます。
 室町時代になると、医師を職業とする人が現れ始めました。当時の代表的な漢方医師には、明に留学し中国の医学を伝えた田代三喜や、豊臣秀吉の主治医であった曲直瀬道三などがいます。この時代までが日本の漢方医学の受容期と言われています。

●江戸時代

 経済や社会が安定していた江戸時代は、東洋医学(漢方)が非常に盛んになった時期でした。多くの村には、漢方医がいて、薬屋(薬種商)ができ、富山の配置薬で有名な薬の行商人が、全国各地を回っていました。
 江戸時代中期以降になると、中国医学を受け入れず、日本独特の東洋医学(漢方医学)を目指す漢方医たちが現れました。古方派と呼ばれる漢方医のグループで、古(イニシエ)の時代の傷寒論の考え方を尊重しました。中国医学の複雑な観念論を嫌い、自覚症状と他覚症状を重視して、漢方の処方を決定しようとしました。古方派の出現には、鎖国のため中国医学の情報があまり入らなくなったことや、蘭学はと呼ばれるオランダ医学の導入もあり、当時のヨーロッパの実証主義の影響も受けていたものと想像されます。
 こうして、中国から伝来した中国医学も、時代とともに、日本人の体質や文化に応じた独自の漢方医学として発展していきました。

●明治以降の漢方の衰退

 明治政府は西洋近代医学のみを正規の医学として認める政策を取りました。西洋医学を修得した者のみを医師として認める法律を発布しました。これにより、漢方医学(東洋医学)は医療行為とは認められなくなり衰退期を迎えました。
 その後東洋医学は、漢方は薬種商や一部の薬局によって、また鍼灸師によってのみ、細々と伝承されることになりました。しかし、医療保険制度のなかった時代、手軽な治療手段として、庶民の間で比較的浸透していました。

●戦後

 戦後になると、抗生物質や副腎皮質ホルモンなど、非常に効果のある薬剤が紹介され、また、健康保険度が敷かれるようになると、医師による西洋医学中心の治療が広く国民に浸透し、東洋医学は再び停滞することになりました。
 しかし、万能かと思えた西洋薬も、スモン病など強い副作用が問題となり、また昭和50年代前半になると、保険適用の漢方薬が増えたことなどから、再び漢方が注目を浴びることになりました。ところが、正当医学と認められていない東洋医学は、日本の医学教育の現場で学ぶことは出来ません。運用方法を知らず漢方薬を病名だけで選び、漢方は副作用が少ないからなどと安易な気持ちで投薬を繰り返した結果、小柴胡湯による副作用から間質性肺炎を起こし、死亡する事件が発生してしまいました。
 戦後も50年を経過すると、日本国民の病気も結核などの感染症から、体質病と呼ばれるアレルギー疾患、膠原病などの自己免疫疾患、がん、循環器系疾患など、生活習慣や遺伝的な体質による病気に変化してきました。これら国民の病気の推移が、今再び東洋医学の注目を集め始めています。
サブコンテンツ

このページの先頭へ